忠臣蔵と泉岳寺
時代劇の定番「忠臣蔵」。
播州赤穂藩・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、幕臣・吉良上野介(きらこうずけのすけ)からかねてより、数々の嫌がらせを受けていた。
一説には、赤穂で生産される良質な「塩」の精製法を聞き出したが、それを拒んだ。それがもとで嫌がらせしたと言われる。
浅野内匠頭は我慢の限界に達した。
結果。吉良上野介は命に別条はなく、逆に浅野内匠頭は即日切腹。赤穂藩浅野家は取りつぶしの憂き目にあう。
赤穂藩の家老達は当然の如く納得しない。当然の如く復讐に燃える。
松の廊下事件から約1年半後。
大石内蔵介(おおいしくらのすけ)筆頭の47人が吉良邸に討ち入り。見事、本懐を遂げる。
亡き主君が葬られている東京・泉岳寺に報告すべく吉良上野介の首を掲げ道中練り歩き、それを墓前に供えた。
舞台となった泉岳寺は今でも昔からの威容を誇っている。
この場所こそが歴史の舞台となった場所だ