武田家の盛衰

戦国の世。山梨県一体を制覇していた武将、武田信玄

一時は上杉謙信とならんで、智将・猛将と呼ばれたがその反映は一時的なものだった。


長篠の戦い武田勝頼織田信長と決戦し、その鉄砲隊にことごとく武田兵は屍となった。

武田信玄は当時、若かった勝頼に「織田とは戦争してはならぬ」と注告していたにもかかわらず。


結果、現在の長篠の戦い古戦場跡には、武田兵を弔った信玄塚さえ残っている。

ちなみに、信玄塚ができて間もなく、信玄塚かっら大量の蜂が発生し、人々を苦しめた。

これを武田の亡霊だと考えた村人が霊を慰めるために起こったのが「信玄原の火おんどり」

長さ2~3M、直径80cmほどの松明を燃やして、これを供養した。地元では400年以上も絶えずに受け継がれている。


その後、武田家臣団は各地に離散した。当然、他藩の重臣として出仕する者など。

ひとつは、彦根井伊家。そこでは武田時代の「赤備え」をそのまま移植し、武田式の軍隊形式に改め、関ヶ原の戦いの際は武勇をもって他藩を唸らせた。


もうひとつは、土佐山内家の話。武田二十四家臣団の中に「板垣信方」という人物がいた。

武田家滅亡後は、山内一豊に仕え関ヶ原の論功行賞で土佐に入城した際、同行した。


時代は下り、幕末。土佐の上士の一人に「乾退助」がいた。当時、後藤象次郎とともに、喧嘩がうまいやんちゃ坊主で有名であった。


鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜を征伐するために江戸に兵をむける。その将として先陣を切るのだが、当時保守的で進行が困難とされた山梨県に入った際「板垣退助」の名に改める。

そう、彼が武田の遺臣である板垣信方の子孫であることを喧伝し、無事江戸まで兵をすすめることができた。


そして、西郷隆盛勝海舟による江戸無血開城に至り。時代が回天していく。